今年は阪神・淡路大震災から20年。
改めて、震災の犠牲となった御霊に、謹んで哀悼の意を表します。
震災の日、私は震源地の淡路島に住んでいました。
偶然、前日は実家のある神戸市内へ里帰りしており、戻ってきたのは「その瞬間」の
僅か数時間前のことでした。
幸い、私と家内の実家の双方とも無事でしたが、丸三日間連絡が取れなくなり、
テレビの安否情報だけが頼りの、眠れぬ日々を送ったものです。
ようやく実家を訪ねる事ができたのは、5月のGWの事。
夜遅くにたどり着いた市内では、至るところで復興工事の真っ最中でした。
神鉄沿線も例外ではなく、大きな被害を受けて不通となっていた湊川~長田間では、
深夜にもかかわらず、懸命に復旧作業を続ける関係者の方々の姿がありました。
この時の帰神時に撮った写真は、粟生線の末端部十数枚と、谷上駅の2カットだけ。
私たちの想像を超え、大きく傷ついた街の姿に、カメラを向ける事はできませんでした。
電車小僧様、こんにちは。
淡路島にお住まいだったそうですね。
皆様ご無事でよかったです。
私たちも九州から親戚や友人が電話をかけてもつながらず、ずいぶん心配をかけたと思います。
携帯電話は、持っている人もまだそんなに多くなかったのでは。
デジタルカメラの普及も震災後でしたね。
しあわせの村にたくさん仮設住宅が建ち、自衛隊の方たちが寝泊りする小さなテントが並んでました。
発着するヘリコプターの姿や、大きなビニールのお風呂に勇気づけられたことを思いだします。
確かに写真は撮れませんでした。
二度とあってほしくないことですが、忘れてはいけないことでもありますね。
亡くなられた方たちに安らかにお眠りくださいと祈るのみです。
あおばさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
私も出身が九州なので、地震直後に親戚の方々からお見舞いの電話が掛かってきた事を
思い出しました。震源地に近い北淡地区では、被害や犠牲者の方々も多かったのですが
洲本から南淡方面は被害も少なく、当日から大鳴門橋経由で物資も運ばれてきたので、
幸いほぼ普段と同じ生活ができました。
しあわせの村の仮設住宅には、義母もしばらくお世話になっていました。今でも時々
近くを車で通ると、当時の記憶が蘇ってきます。
おっしゃる通り、二度と経験したくないけど、絶対風化させてはならないことですね。
あおばさんのコメントと、かげとらさんの記事を拝見しながら、改めて思いました。